御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ



灰の水曜日    Dies IVa Cinerum          四旬節の始まりの日、御復活祭の、主日を除いた40日前の水曜日



 四旬節は灰の水曜日から始まる。灰の水曜日とは、四旬節の第一日曜日に先立つ前の水曜日でその日灰の祝別式と塗布式とが行われる所からその名前がある。

 灰の聖式は人々に痛悔を勧める最も厳粛な、且つ印象深い儀式である。既に新約、旧訳両聖書にも、灰を頭に振りかける事は、悲しみや謙遜や痛悔や打ち砕かれた心の徴、象徴として記されている。初代キリスト教の贖罪規定においても、灰は同様の意味を有していた。当時は公の痛悔者があると、司教は厳かな儀式を執行してこれに聖堂参詣を禁止し聖木曜日に至ってそれを赦したものであった。即ち、誰知らぬ者もない程な大罪を犯した人は、四旬節が始まると共に、また公に償いをして痛悔の心を示さねばならなかった。それが四世紀から十世紀の聖会に於ける習慣であったのである。

 公に痛悔を示すには、典礼にあずかる事を禁止され、御聖体拝領も許されず、一方では祈祷とか、苦行とか、大斉など、償いの業をするのであった。痛悔者は聖堂参詣をとめられる前に、苦行用の衣を与えられ、頭から灰を振りかけられる。この儀式は極めて感銘的で、痛悔者ならぬ人々にも、罪の恐るべき所以を考えさすに十分であった。

 後世に至って聖会は痛悔贖罪の規定を容易ならしめ、ただ人知れずにこれを行えばよいとした、とはいえ、その代わりに灰の祝別並びに塗布式が灰の水曜日の典礼の、本質的儀式として一般信者の為に行われることとなったのである。

 痛悔の心を現す象徴として、灰はいろいろに考える事ができる。我等の肉身は焼けば一抹の塵にも等しい、無益な灰になってしまう。されば灰の聖式を受ける時我等は自分が灰のような、塵のような価値なき者である事を痛感して。天主の御前に深くへりくだり、身を卑下せざるを得ない。そしてこれこそ痛悔に最も必要な心がけなのである。

 灰はまた有機物の焼いた残りであるから、滅びや死の徴ともなり、従って吾人に、取り返しのつかぬ最期の日が来たらぬ内に罪の恐ろしさを悟り、地獄の罰を忘れず熱心に痛悔せよとの訓戒を与える。聖会はこの思想に特に重きを置き、今も灰の正式を行う時にはいつも、天主が人祖を代表として人類一般に仰せられた「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」という死の宣告を、司祭に誦えさせるのである。

 灰の水曜日に用いる灰は、典礼規定の命ずる所に従い、前年の枝の主日に祝別された棕櫚の枝を焼いて製する。何となれば棕櫚の枝は凱旋の行列に用い、勝利と喜びの象徴である。これを焼いて灰にすれば、人間の栄華も得意も、一朝にして過ぎ去るはかない夢で、最後は滅び去らねばならぬ事を諭すのに、この上もない効果があるからである。

 この灰を振りかけるのは準秘蹟であって、聖寵を与えて痛悔の心を起こし、償いの業を実行するように力づける。この準秘蹟が信者に及ぼす影響は、実に偉大なものであるが、その力は聖会の祝別によって生ずるのである。その祝別式にはまず聖職者達が聖堂に入る時入祭文の公誦が歌われ、その中で我等は罪より起こった身の不幸を訴えて天主の御憐れみを祈り求める。それから最初の祝別の祈りで、聖会は祝された灰が我等の霊肉の病を治癒し、またそれを予防せんことを願う。次いで第二の祈りでは、この灰の使用が謙遜の業として罪の赦免を得る因とならん事を望み、更に第三の祈りでは、灰で十字架を印す時豊かな祝福が与えられ、砕かれた心となり、正しい願いが叶えられんことを希う。なお、第四の祈りにおいては、我等が痛悔せるニネベ人の如く天主の御憐れみと罪の赦免とを得る聖寵を与えられるように求め、後いよいよ灰の聖式が始まる。そしてその間聖歌隊は感動すべき痛悔の歌を唱い、最後に霊の敵と戦うについての天主の御助けを願って式を終わるのである。

 灰の聖式に続いてミサ聖祭が行われるから我等はそれに与って四旬節の真の意義に従い、主の聖旨に適う痛悔の精神を得るように努めるがよい。なおその日から御復活までは、聖会の掟の命ずる通り、肉身上の大斉を守らねばならぬが、これは誰にも守れるとは限らぬ、然し精神的な大斉なら、如何なる人にもできる。精神的の大斉とは傲慢、悪欲、よからぬ考えなどを捨て、差し支えのない、或いはやめられぬ快楽や習慣をも廃して克己犠牲の業を行い、また特に祈りに励むなどの事である。かようにしてそのミサ中の福音に教える如く天国の為朽ちざる宝を蓄えるならば、短いこの世の悲哀や痛悔は、天上永遠の喜びをもたらすであろう。